昭和50年11月20日 朝の御理解



 御理解 第8節
 「子供の中に屑の子があれば、それが可愛いいのが親の心ぢや、不信心者程神は可愛い信心しておかげを受けて呉れよ」

 屑の子があれば、それが可愛いのが親心といふ、所謂可愛いというよりは不憫がかかる訳ですね。御神訓に「神の教えも真の道も、知らぬ人の哀れさ」というみ教えがあります正しくその哀れを感じます。本当に屑の子があると言う事は屑の子その人も哀れです、信心の道も真の道も知らぬ人は本当に哀れです。けれどもそういふ子を持った親もまた哀れです。もう切実です。  
 信心しておかげを受けて呉れよ、信心しておかげを受けて初めて、親の喜びが親の安心がある訳です。昨日日田の背高さんお参りされて、皆さんもご承知の様に。お子さんがあれは生まれつきでしようね。目が見えなさらない、真っ白で両眼とも真っ白うなっとります。それで大分の所謂、目の見えない人ばっかりを収容する、学校にやっとりますまあ小さいのを親の元から離してやるのですからね。親も本当心もとない。
 私はもう始めて子供を連れて参って来た時にもう親の思いというか。本当に今日の御理解ぢゃないけれども。本当に親って哀れだなと思いました。屑の子を持つと云う事はね、それでもやっぱり親の一心、何とか合楽では大変御比礼が立っておるげなから。奇跡が現れておるげなから、まあ万が一にでもおかげが頂けたらという一心で、一緒に参って来る訳です。こちらへ休みで帰って来ると必ず子供も一緒に参って来るのです。
 先日から文化祭があったんです。それでおかげを頂いてだんこう色別ですね、色が分かる様になったところがこんど行ったら。僕は字もわかるよと云ったと言う。ただ習うとらんけん読めないだけだと言う。と云う昨日はお礼のお届けがありましたがね。もう本当に親の一心と云うか、それを願う縋る時には、哀れを感じる程しの事で御座いますけれどもそれが親心です。
 とてもこれが現代の医学の粋を集めてしても明かないものが。とにかく明く筈もない、けれども万が一にも神様にお縋りして。というその心というものがね。矢張り屑の子程可愛いいというその一念を、まあ感じん訳にはおられませんです。おかげを頂いて例えば私の方の一番下の栄四郎が。この頃の合楽会の時でした西岡先生が感心いたしました、栄四郎さんには。何故ですかといふたら。
 この頃私の所に習字の稽古に見えました。
 僕はあんまり習字は好かんし余り上手ぢゃないばってん親先生が喜びなさるから。僕は習字を稽古しようと思い立ったと云う事を言われたと言うのです。親先生が喜びなさるからという親としてこんなに嬉しい事はありません。出来る出来んは別としてです。私は本当の可愛いというのは、屑の子程可愛いというのは哀れを催す。けれども親の思いに添いたいという。然もそれをその一念を燃やす、その一念を辿らせて貰う子が居るなら親としてこの様な嬉しい事はなかろうとこう思う。
 出来る出来んは別としてでもです。親の思いに添いたいと云うただけでも親は嬉しいのだから。それが本当にそう実行して来るなら。親としてこんなに嬉しい事はない。本当の可愛いというのは。そういう子の上に起こるのが、本当の可愛いと思うですね。可愛いと思う心が神心と仰るその神心がそこえ動くのです。今朝私は御神前でテレビで灘の酒の白雪といふ。酒のコマ一シヤルをやってますね。
 『山が富士なら酒は白雪』というのがありますね。私がこりゃあもう椛目で人が助かる様になった時分からの思いですけれども。私はどうでも日本一有り難い私にならせて頂こう。是が私の願いです。私はそういう願いをさせて頂く時に、神様が矢張り胸どきどきする様な思いで喜びなさったろうと思うです。そら頭が悪い、器量が悪い腕はなし、力はないのですから、私が例えば相撲取りになろうとか。
 横綱にならうとかというたって、こりゃ無理です。私はいっちょ総理大臣になろうといったって。頭がないのですから、そりゃ馬鹿んごたる事です。けれども信心させて頂くものがです。信心とは賢うなる為でも偉くなる為でもない有り難くならせて頂く稽古だと極言されるのですから。その有り難いと言う事なら。これは云うなら少々頭が足らなかってもです。器量が悪かってもです、それを目指す事が出来るのです。
 目指して可笑しい事はないです。けど私が総理大臣を目指すなら可笑しいです。私が相撲取の横綱を目指すならそれはおかしいです。けれども信心させて頂く者が。愈々有難くならせて貰、日本一を目指させて頂こうと、是ならおかしい事はないです。成れる成れぬは別としてです。だからそう言う願いを持つ時に親の心の状態はです。親は本当に嬉しからう、有難かろうと思います。
 富士は日本一の山といはれる。日本一を表現するときに、所謂富士山を、山は富士ならと云う事は。山は日本一いうならば、高いというだけではない、気高いまでの富士の姿というものが、素晴らしいという。そういう日本一を目指さして頂いてです。ならどう云う様などういう在り方にならせて頂いたら。愈々日本一有り難い私になれるか、と言う事を今日ははっきり酒は白雪。と言う事で教えて貰った様に思うのです。
 酒というのは愈々有り難き。勿体なき畏れ多きのみきを奉れ神様が一番喜び下さるのはこのみきぢゃと仰る。所謂有り難いと云う心をお供えするのが一番神様が喜び下さると言う事ですね。白雪と言う事です。例えばどういう目に余る様な事があってもどういう汚いものがあってもどういう様な場合いであっても。この白一色に塗りつぶすというか、もうそれこそ、っ白い雪が積もっておるときには。もう一切の美もなからなければ、醜もない。それを覆い被せれるだけの信心。
 所謂最近いはれるところの、大きくならう豊かになろうと言う事です。一切を自分の有り難いものに包んでしまう程しの有り難さ、それは私が愈々もって豊かにならう。大きくなろう。という精進をさせて貰う以外にはないと言う事です。段々信心させて頂いとりますから、大きな事には案外。どっこいとこう受けさして貰うと言う様な。心が段々お互い鍛えられて来たのですけれども。
 ちょいとした事些細な事に心を汚す、不思議なものです信心させて貰うとね、どう云う事が起こって来ても段々神様がわかればわかる程、どっこいとこう受けて元気な心が日頃養はれておる訳ですね、皆さんも体験される事だと思うです。さこれで一徳受けるぞと言った様な力も湧いて来るのです。所が余りにも些細な事やらには、ちよっと迂闊に心を汚したり、迂闊に腹が立ったり、苛々したりしているのです。ほんの些細な事に。
 私は今朝から私の寝んでおる部屋の上に額が懸かっております。それは朝鶏の声を聞いて一日が始まる。月の一日は仁義を言わば人間関係を良くする為に礼儀を守る。と言う事が書いてある。一年の事もその一生の事も書いてある様に思うのです。私には字が読めんから分りません、けど始めの二行三行は、そうだろうとこう思うのです。それを見せて頂いた途端に私は有難くなったんです。というのはね私が三時十五分に目を覚まさして貰う。是は一生涯おそらく続く事だろう。
 言うならば一日一日をです、先日新聞に金光様のお言葉が出ておりましたが、今月今日を有り難く頂いて行けば、一生が有り難いと云う事が書いてありました。今月今日をですね、言うならば充実した一日を過ごさして頂くのですから、日もなければ月もない、年もない、今日一日がそういう充実した一日であれば、しかもそれが身についてしまえば、一生が有り難いと言う事になる。まあ信心ちゃいよいよ有り難いものだな、事だなと言う事を本当に痛感しました。
 でその事をお礼申さして頂いとりましたら。愈々それが内容としてです充実して行く事のために山は富士なら酒は白雪とう様に目指す所は。例えば一生涯が愈々充実した一生が終われると言う事、その内容は有り難い勿体ないでなからなければならないと言う事。所謂日本一有り難い私を目指して頂くと言う事だけでも。親が喜ぶ神様が喜んで下さるだろう。そこで有り難くならせて頂く一つの手立てとして。
 おかげを頂かせて貰うて。愈々豊かに大きくならして貰うて。それこそ雪一色に白一色に醜も美も一切をこれで覆い被せてしまえるだけの豊かさ気高さ、美しさというものを目指さして貰わなければならん。愈々大きくならなければならない。信心の稽古を段々させて頂いて。よしそこで大きな事が普通でいうならさあどうしようかと思う様な事が起きて来ると。不思議に信心を頂いておる者がです。矢張り底力が出来ておる。
 どっこいこれで一徳受けようという元気もでるけれども。日々の茶飯事の中に小さい事柄にいらいらしたり、小さい事に腹が立ったりする様な事ではまだ本当なものですないとわからして貰てです。いよいよそれを自分の豊かな大きな心で包んでゆけれる修行を。本気でさせて頂く以外にはない。と言う事になるのです。昨日の御理解の中に富永先生の例をとって従うと言う事を聞いて頂きましたね。従といふ字です。あの神様にお願いをする。お伺いをする。
 何でもお伺いしてする人も有りますけれども。自分の都合の為にお伺いをしたり神様任せになっておるのは、惟は助かりませんお陰になりません。ああ親先生の言ひなさる通りにしとけば間違いないからお伺いするお願いをする様な事では。決して有難い心は生まれて参りません。従うと云う心、それは親先生がもう右と仰ったから右に従うと言う事だけに喜び安らぎが有る心に。
 富永先生ぢゃないけれども。親先生の言われる通りの事をして。今度の大祭を奉仕させて頂きましたら、心が安らいで。いらいらもやもやもなくて。然も去年よりもいうなら倍のお参りがあり、お供えも倍のお供えを頂いたと云う様なおかげになって来とる。それは親先生の言いなさる通りにすれば。おかげになるからそうなるのではない。心が安らいでおるからおかげになるのです。だから答えを右左にすると言う事は。
 お伺いをすると言うた様な事は。従うという心でのお伺いでなければいけません。先生にお願いしてお伺いをしたけれども、先生が言ひなさる事の反対になったと言う様な事で、もう既に有り難くなくなっておる。右とか左とかは任せた心が従うと言う心である。そう言う心を愈々高めさせて頂き乍ら。愈々広い心いうなら豊かな心。大きな心を愈々目指さして貰う。然もその事に一生取り組まして頂く。願いを言うならば日本一有り難い私にならせて頂こうと言う願いがです。
 今日私が御神前で頂いた山は富士なら酒は白雪と言う事であった。酒と言う事は富士山と言う事は私共の目指しであり。酒と言う事は有り難き。勿体亡き畏れ多き、と言う事であり為には白雪である。もう醜も美も一切をこれに包んでしまう程しの。精進をさして貰うと言う事が。おかげが頂ける道である。私は今日は、御理解八節を屑の子程可愛いと言われるけれども、これは言うならば哀れな又の神様のお言葉にあります様に。信心の道も真の道も知らぬ人の哀れさと仰っとられる。それは目の見えない子供に対する親の念であって。本当に可愛いです。けれどもその内容は哀れです。
 親の思いもまた不孝な子供がある事は哀れだと言う事になります。そこで親のその一念が子供にかけられる。まあおかげで合楽にご縁を頂く事になるのですけど、信心をさして頂く者は、どこまでも信心しておかげを頂いてくれよと言うおかげを受けた時に。愈々神様のお喜び、所謂可愛いと言う思いは愈々かけられる。親にも喜んで貰い自分も喜ばれるような信心を頂かねばならん。と言う事を聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。